檀家制度がない、お寺が出来たのはどうしてなの?

お寺や僧侶を守るのではなく、信者様の家庭設計や老後への心遣い、家族との別れなどの悲しみや社会で生きていく上での悩み苦しみなど、仏教に説かれた教えを、伴に考え解決していく姿勢がなければ仏教の将来はないでしょう。人の生活や思いを心から大切にすることこそが、寺や僧侶が生かされる唯一の道に成るのだと信じています。私も仏教信者の一人として、皆様と共に悩みや悲しみのむこうにある真実・教えを探そうと願ってきました。そんなお寺に檀家制度は相応しくないと感じ、37年前に今日の龍華寺が誕生しました。。

ご法事等はご希望により、私でよければという思いでお受けしています。
私で良ければという言葉の裏には、私でダメなら、一生懸命でなければ、という思いが潜んでいます。

日本語をほとんど使わないお経は、お釈迦様の言葉で、仏様やご先祖に語りかける、又は呪文??の意味も含めて大切に忠実にと思っていますが、それだけで良いのか?残されたご家族の為に、お経に説かれた心の切り替えや、慰めを伝えなければ、「お経を聞いた」「意味を知っている」の次に「仏教を使える」ところまで昇華し、吸収して頂かなければ(使えないものが人に必要な訳がない)。年忌や法要、そして悲しみの中に隠されている貴方の深い優しさに気付いてもらわなければ…。悲しみから悲しみが生まれるのではない!! 「貴方がいてくれてありがとう」「世話になったネ」という先祖の思いと「あれもしてあげれば良かった」「あれは言わなければ良かった」という残された者の温かい思いが悲しみを生むんだと、そこに気付いて頂かなければ仏教がいらなくなる。お葬式から四十九日の間に有る深い悲しみをどのように優しさに変えていくのか…。一周忌から3回忌、そして50回忌まで「去り逝きし人の想い」に対する理解と、残された者の心の切り替えやその保ち方は、住職にとっても、とても大切で 自らの生活の中でも救われることが数多くありました。ただお経を聞くだけではなく(これはご先祖の為には必要なのかもしれませんが)仏教の持つ、先立たれた方への思いやり(ご供養)と、残された人への心のケア、その2つの問題は分けて考える必要があると信じています。私の拙い経験とご信者様とのふれ合いの中で得た、その切なる思いを書き綴ってみました。

お寺は霊園の片隅で・・・でも一生懸命に

霊園創立より30余年。6000基を超えるお墓を建立頂きました。その内、霊園としてのみの利用を望まれる方がほとんどですが、悲しい安心でしょうか、何かあったらお願いねという方もあり、約2000余基のお客様はお寺としてのお付合いを望まれます。当寺は創立以来、また将来にわたって檀家制度の採用はありません。
「一期一会」 1回限りのご法事等のご縁こそ、悲しみの中にある残された貴方の優しさ、先立った方の温かさを知って頂くためにも、大切なことだと思っています。